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成都観光スポット
黄龍渓古鎮

黄龍渓は、黄龍渓は、府河と鹿渓河の合流地にあり、成都郊外42q、府河の河流沿いにある交通の要衝として発展した街です。かつての清末から民国にかけての府河の水運交易について記しておきましょう。

黄龍渓の名の由来は、『三国志』「蜀書」「先主伝」にある「間(近頃)黄龍、武陽の赤水に見え、九日にして乃ち去る」という黄龍の瑞兆出現の記録に基づいています。『黄龍甘露碑』には、黄龍武陽に見ゆの事、一鼎(かなえ)を鋳し、龍形を像づくり水中に沈む???故に名を黄龍渓と曰(い)う(『隷続』収録)、『元豊九域志』には彭山県州北(眉山)四十五里にあり十九郷を文豊?蛮回?黄龍?福化四鎮を轄す」、『輿地広記』に「黄龍鎮は赤水口にあり、漢末黄龍武陽に見ゆ」と記し、宋代には郷鎮として繁栄していたことが窺えます。

船便で府河を下る場合、成都の九眼橋から朝出発し、航程ちょうど百里、夕方には黄龍渓に着きます。成都の手前の宿場町です。このように下りは楽なのですが、上りは水を逆らうので大変です。30トンクラスの木造船だと、百名あまりの船曳き夫が縄を引っ張り船を動かします。地元の俗謡に「一日軽々河くだり、四日縄を担いで成都に上がる」といい、一日だいたい二十里進み、水かさが増していると十里ほどしか進めなかったそうです。港町としては、ここで一晩休んで船を換え、荷を移すので、街中の川沿いの鎮江寺辺りにあった築堤王爺坎を下った辺りの埠頭では、上りの船が一、二百艘、長さ二里の長きに並び、隣の皇墳村の辺りまで列をなし、下りの船も百艘近く、一里あまりの長きに並び、鶏市?まで列をなしていたそうです。鹿渓河にも、梁埠頭胡埠頭の二つの埠頭があり、現地の農産物などを運んでいたとのことです。船の乗り換えが行われたところでした。王爺坎の埠頭は対岸との渡し場でもあり、市が立つ日には府河を渡る農民がぎっしり列をなし、竹籠や天秤棒をもち箒や紙製品などの日用品を運び、鶏?豚の家畜は船の上で鳴き叫ぶというにぎやかさでした。冬の渇水期には、河面に船を並べて浮き橋にしていたといいます。なお、中華民国期末年の居住人口は1500人とのことです。

船便で府河を下る場合、成都の九眼橋から朝出発し、航程ちょうど百里、夕方には黄龍渓に着きます。成都の手前の宿場町です。このように下りは楽なのですが、上りは水を逆らうので大変です。30トンクラスの木造船だと、百名あまりの船曳き夫が縄を引っ張り船を動かします。地元の俗謡に「一日軽々河をくだり、四日縄を担いで成都に上がる」といい、一日だいたい二十里進み、水かさが増していると十里ほどしか進めなかったそうです。港町としては、ここで一晩休んで船を換え、荷を移すので、街中の川沿いの鎮江寺辺りにあった築堤王爺坎を下った埠頭では、上りの船が一、二百艘、長さ二里の長きに並び、隣の皇墳村の辺りまで列をなし、下りの船も百艘近く、一里あまりの長きに並び、鶏市?まで列をなしていたそうです。

黄龍渓という名前は宋代の名で、清代では永興場といい、清末の成都の生活案内書『成都通覧』では黄泥渓と書いてあります。黄龍渓という名が復興したのは中華人民共和国成立以降のことのようです。黄泥渓の名には理由があり、「舟人多くその地に泊まり、船漏れを磨き補うに渓の泥を取る、細膩(こまやか)なり」と本書で記しているように河の泥が水漏れを防ぐに適しているという意味もあるのでしょう。

 



 




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